ネジバナ


初めに

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ウィキペディア(Wikipedia)から転載させていただきました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ネジバナ
ネジバナ(捩花、学名:Spiranthes sinensis var. amoena)は、ラン科ネジバナ属の小型の多年草。別名がモジズリ(綟摺)
特徴
湿っていて日当たりの良い、背の低い草地に良く生育する。花色は通常桃色で、小さな花を多数細長い花茎に密着させるようにつけるが、その花が花茎の周りに螺旋状に並んで咲く「ねじれた花序」が和名の由来である[1]。「ネジレバナ」、「ネジリバナ」、「ねじり草(そう)」とも呼ばれる事もある。学名のSpiranthes(スピランセス)は、ギリシャ語の 「speira(螺旋(らせん))+anthos(花)」に由来する。右巻きと左巻きの両方があり、中には花序がねじれない個体や、途中でねじれ方が変わる個体もある[2]。右巻きと左巻きの比率は大体1対1である[3][4]。
花茎から伸びる子房は緑色で、茎に沿って上に伸び、その先端につく花は真横に向かって咲く。花茎の高さは10-40 cm[5]。花は小さく、5弁がピンク、唇弁が白。花のつく位置が茎の周りに螺旋状であるため、花茎の周りにピンクの花が螺旋階段のように並ぶことになる。この螺旋は右巻きと左巻きの両方が見られる[6]。コハナバチのような小形のハナバチなどが花粉塊を運んで他花受粉が起こる。訪花昆虫が入り込めない隔離温室内などで開花した個体の場合、基本的にはほとんど結実がみられない。しかし長期にわたって花粉塊が運び去られないと、これが崩壊して柱頭に降りかかり、自家受粉を成立させる場合もあることが知られている。開花時期は4-9月[1]。
葉は柔らかく厚みがあり、根出状に数枚つける。冬期は楕円形だが生育期間中は細長く伸びる。根は極めて太短く、細めのサツマイモのような形で数本しかない。ごく稀に真っ白い花をつける個体(シロネジバナ、シロバナモジズリ)が見られ、園芸愛好家に好まれる[6]。
参考
Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/Spiranthes+sinensis+var.amoena
わが国の各地をはじめ、朝鮮半島や中国の中部・東北部それにウスリー地方、サハリンに分布しています。日当たりのよい草地に生え、高さは10〜40センチになります。根生葉は広線形で数個が斜上します。また茎には披針形の鱗片葉がつきます。4月から10月ごろ、螺旋状にねじれた穂状花序をだし、ピンク色から紅紫色の花を横向きに咲かせます。まれに白花もあるそうです。また螺旋の巻き方には左巻きだけではなく、右巻きのものもあります。別名で「もじずり(捩摺)」とも呼ばれます。ネジバナ亜科(Subfamily Spiranthoideae),ネジバナ属(Genus Spiranthes)
Spiranthes sinensis (Persoon) Ames var. amoena (M. von Bieberstein) H. Hara, 1969
Basionym
  Neottia amoena M. von Bieberstein, 1819
米倉浩司・梶田忠 2003-.「BG Plants 和名−学名インデックス」(YList),http://ylist.info

『古今集』恋四・724 源融
 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむと思ふ われならなくに
源 融(みなもと の とおる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/源 融
源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。河原院、河原大臣と呼ばれた。母は大原全子。滋賀県大津市に源融神社がある。
経歴
仁明朝の承和5年(838年)元服して正四位下に直叙され、承和6年(839年)侍従に任ぜられる。仁明朝末の承和15年(848年)右近衛中将に任ぜられると、嘉祥3年(850年)正月に従三位に叙せられ、29歳で公卿に列す。文徳天皇の即位後の同年5月に右衛門督に任ぜられて引き続き武官を務め、斉衡3年(856年)参議に昇った。
清和朝に入っても、天安4年(859年)正三位、貞観6年(864年)中納言と順調に昇進する。この頃、異母兄の左大臣・源信と大納言・伴善男が不和の状況にあったが、同年冬には源信が融・勤兄弟と反逆を謀っているとの投げ文があり、騒ぎになったという[1]。その後、貞観8年(866年)応天門の変が発生して、伴善男は失脚、源信は籠居して出仕を取り止めてしまい、結局貞観10年(868年)に源信も事故死してしまった。加えて、この間の貞観9年(867年)には右大臣・藤原良相や大納言・平高棟といった大官が相次いで没したこともあって融は急速に昇進する。貞観12年(870年)大納言に昇ると、貞観14年(872年)には太政大臣・藤原良房の薨去に伴い、融は太政官の首班に立って左大臣に任ぜられた。
しかし、貞観18年(876年)自ら東宮傅として仕えた貞明親王(陽成天皇)が即位すると、約15歳年下で太政官の席次も下位の右大臣であったにもかかわらず、藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられたため、融は上表を出して自宅に引籠もった[2]。
元慶8年(884年)陽成天皇の譲位によって皇嗣を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後に即位した例はないとして、基経に退けられたという逸話がある[3]。しかし当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。なお、光孝天皇が即位すると融は政務に復帰した。その後、光孝天皇が崩御すると、天皇の子は全て臣籍に降下して源氏となっていたが、基経は源氏に下っていた源定省を皇籍に復帰させて即位させている(宇多天皇)[4]。
宇多朝の寛平3年(891年)関白太政大臣・藤原基経が没し、融は再び太政官の首班に立った。寛平7年(895年)8月25日薨去。享年74。最終官位は左大臣従一位。没後正一位の贈位を受けた。
人物
紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補といわれる。
陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となった。六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語集』『江談抄』等に見える。
嵯峨にあった別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。また、宇治に営んだ別邸の地はのちに平等院となった。
勅撰歌人として、『古今和歌集』『後撰和歌集』に各2首ずつの和歌作品が採録されている[5]。小倉百人一首では河原左大臣の名で知られる。

大江匡房の『本朝神仙伝』には河原院大臣侍の名で、仙人になりそこねた人物として収録されている[6]。仙道を学んでいるという近習に「自分はもうすぐ仙人なれるが、融には仙骨があるので一緒に仙境へ行こう」と誘われるが、妻子に断ってから行くと返答したところ、妻子に愛情をかけるようではとても仙道は達成できない、と見限られる物語となっている。
百人一首(14)みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに 河原左大臣(源融)
「この男、―の狩衣をなむ着たりける」〈伊勢一〉



2025年
洋ラン学園分校、「蘭塾」での栽培をご紹介します。


トピックを随時紹介させていただきます。2025/07/19
芝生の中に咲いていたのを鉢上げ



洋ラン開花2011
2021年
6月
芝生の中でネジバナが咲きました。
集めておいた実をばらまいてそれを忘れて普通に芝刈りしていましたが、小さくて運よく生き残ったと思われます。



2021/06/11